こころとからだ

才能は「種」として与えられる。

「言葉でわかりやすく伝える」ことは、自分でも得意な方だと思っています。

講座などでも「説明がわかりやすい」と言ってもらえることがあります。

逆に、まったくセンスがないのが「絵」です。

カラダのことを説明するときに、絵が上手だったらわかりやすく伝わるのになぁと感じることも、多々あります。

もしかしたら、がんばって練習するとか、上手な人に教えてもらうとか、そういう努力をすれば、ある程度はマシになるのかもしれない。

でもセンスがないので上達にものすごく時間がかかるだろうし、努力したところで到達できるレベルは、たかが知れている。

なので、絵を上手に描けるようになろうというのは、とっくに諦めました。

その代わり言葉で伝えるのは割と得意だし好きでもあるので、そっちを磨こうと。

才能・センスって<役割>として与えられたものだと思っているんです。

それを使っていくと<使命>に繋がりやすい。

ただ、最初から言葉で伝えるのが得意だったかというと、そうではない。

独立前に整体スクールで勤務していて、そこで講座を担当させてもらえるようになって。

最初の頃は、ボロボロでした。

でも「どうすればわかりやすく伝えられるだろう」ってそればっかり考えて、自分なりに試行錯誤し続けた。

そのうちブログもはじめて、毎日のように長文をUPした。

ブログもわかりやすく伝えるという意識で、ずっと書いてきました。

そうやって日々意識し試行錯誤してきた結果、「説明がわかりやすい」と言ってもらえるようになりました。

詩的でアーティスティックな表現は出来ません。

が、わかりやすく伝えることは得意な方だと思います。

そしてその「言葉でわかりやすく伝えられる」という能力のおかげで、なんとか廃業せずに済んでいるのだと思います。

が、もし僕が努力の向けどころを「絵」にしていたら、きっと「言葉で伝える」ように仕事に活かせなかった。

何が言いたいのか。

才能って、きっと「種」として与えられているんです。

で、その種から芽を出し花を咲かせるには、磨く努力・工夫をしなきゃいけない。

自分は何も才能がないと思っている人は、その種に気づいていないだけなんだと思うんです。

最初から花が咲いていれば気づきやすいですよ。

でも多くの場合、最初は種なんです。

あとは、才能の意味を過大評価しすぎているとか。

誰と比べても飛びぬけて秀でているというレベルを求める必要はないんですよ。

僕よりももっと言葉でわかりやすく伝えられる人、たくさんいるでしょう。

でも、僕が僕らしく生きていくレベルでの才能は、与えてもらっていると思っています。

そのレベルでいい。

で、悲劇なのは。

種さえもないものを、努力でなんとかしようとすること。

僕でいうと、努力して絵を上達させようとすること。

種がなくても、努力をすればある程度まではいくと思います。

が、ある程度止まりなんですよ。

明らかな優位性が出せるレベルにはなれない。

なので、どちらにしても努力は必要だと思いますが、その努力が報われるか報われないか、種の有無で決まってしまう気がします。

努力家なのにうまくいかない方。

もしかしたら、種がないところに水をあげていませんか?

逆に、いくら種があっても、水をあげないと花は咲かないですよ。

じゃあ、自分にはどんな種が与えられているのか?

答えは、自分の中にあります。

自分に与えられた種に気付けるかどうか、そしてその種を適切に育てられるかどうか。

それによって、人生が変わるのかもしれません。