「パニック発作」に悩まされているお客さんから、話を聴いていました。
僕も20年前くらいから起こりはじめました。
今も完全に克服したわけではありませんが、体感ではいちばんきついときが10だとすると、今は1~2くらい。
なぜ起こるのか。
どういう時に起こりやすい⇔起こりづらい、のか。
自分なりに原因・パターンがわかり、起こったとしても対策がわかってきたので、かなり楽になりました。
とうぜん個人差はありますし、あくまでも僕の事例でしかないですが、少しでも参考になればと思い、書いてみます。
約20年前、当時も関東に住んでいて、沖縄へ帰省するために乗った飛行機の中で初めての発作が。
ドアが閉まるというアナウンスを聞いた瞬間、それまでに感じたことのない、例えようのない強烈な恐怖感に襲われました。
人生ではじめて経験する感覚。
その時をきっかけに、たびたび発作が起こるように。
経験を重ねてわかったことは、共通しているのが「閉塞感」を感じたとき、だということ。
飛行機って、ドアが閉まったら到着地まで出られない。
離陸してしばらくはシートベルトを外せない=座ったままでその場から動けないので、拘束された感じになる。
高速バスも苦手で。
以前、出張である地方へ行ったとき。
空港から市街地まで車で1時間弱の距離を高速バスで移動しようとしたのですが、大混雑で通路の補助席も埋まり、満席状態。
発作が起こり、耐えられなくなり、降りてタクシーに乗り換え。
バスなら1,000円くらいで済んだのに、タクシー代だとその10倍かかりました。
きつい頃は、自分で車を運転しているときでも渋滞にはまると発作がきたり、歯医者や理容室で治療やカットの準備をされるだけでも動悸が起こることもありました。
閉塞感(拘束感)を感じたときだけ起こる、かと思いきや、なんでもないときに不意に強烈な恐怖に襲われることも。
初めて発作が起こるその前までは、全然大丈夫だったんです。
同じような状況でも、まったくストレスに感じなかった。
でもあの日を境に、変わってしまいました。
原因不明。
というわけではなく、ちゃんと原因はあったと思います。
僕の場合は。
キーワードは「閉塞感」
それまでも潜在的に心身に閉塞感を感じていて。
そのストレスが水面下で蓄積され続けていて。
水面下で抑えておくことができなくなってきたタイミングで、たまたま飛行機がきっかけになって表面化したのだと。
閉塞感の対極にあるのは、解放感。
閉塞感=不自由
解放感=自由
パニック発作は、それまでの人生で不自由さを感じてきて、その蓄積⇒爆発によって起こったものではないかと。
もしそうだとしたら、その不自由さから少しずつ自分を解放してあげて、自由に生きられるようになっていこうと。
パニック発作が起こらなかったら、そこ(自分の生き方)と向き合おうとすることも、なかったかもしれません。
自分を不自由さから解放し、自由な生き方にシフトしていくために。
自分で自分にかけてしまっている抑圧を、解いていこうと。
まずは、身体面での緊張。
身体の過度な緊張・慢性的な緊張は、自分自身への抑圧になります。
「どうすれば身体は緊張から解放されるのか?」
試行錯誤しながら取り組んできました。
それと同時に、心理面も。
心理的抑圧の原因は、掘り下げていくと2つあると気づきました。
ひとつが、自己評価の圧倒的低さ。
ふたつめが、偏った考え方。
自己評価が低いというのは、違う表現だと自分を信頼できていない、ということです。
自分を信頼できていないと、「身体の緊張」としても出てくる。
で、「考え方が偏っている=許容度が低い」ということでもあるので、不自由なんです。
ということで、身体の過度な・慢性的な緊張を緩めていく、そしてアンバランスを調えていく、そのことに地道に取り組み続けていくと、僕の中にある根本的な問題が少しずつ変わってきて、結果的にパニック発作も起こりづらくなってきました。
ちなみに偏った考え方が少しずつ変わってきたのは、<陰陽五行>を学んだことがすごく大きく影響しています。
◆身体を緊張から解放していく
◆自分を信頼できるようになる
◆偏った考え方に気づき視点を増やす
パニック発作を根本的なところから緩和していくために必要なことは、僕にとっては↑の3つでした。
表面的な対処法もいろいろありますし、そういうことも実践しています。
ですが、問題が根深く慢性化しているほど表面的な対処法だけで改善させるのは難しく、根本的なところに年単位で地道に取り組み続ける必要があるような気がしています。
それはパニック発作に限らず、ほとんどの慢性症状にいえることかなと感じています。
究極の理想は、自覚症状がないうちから心身をメンテナンスしておき、水面下に蓄積しているストレスを軽減し、なるべく表面化しないようにすること。
表面化したころには簡単に治らない、かなり根深い問題になっている、ということも少なくありませんからね。
まぁでも、そんなことよりも目先の快&楽に流されてしまうのも、人間の愛おしいところでもあります。