こころとからだ

義母が嫌い。

今回の沖縄は10泊11日。

施術や講座にお越しくださった皆さん、ありがとうございました。

空港に行く前に、元の店の近くにある通っていた食堂へ。

看板メニューの「ちゃんぽん」をいただきました。

沖縄のちゃんぽんは麺ではなくご飯。

「卵とじ野菜炒め丼」

という感じです。

やっぱり美味しかった。

変わらない味、安心しますね。

その次に、やはり以前通っていた温泉へ。

しっかりリフレッシュできました。

そして空港に着くと、搭乗予定便の出発が1時間以上遅れると。

・・・ということで時間ができたので、ブログを書いています。

では、本題。

昨日、ご相談をいただきました。

「義母が嫌い」

と。

「これまでの人生での人間関係はうまくやってきた方なのに、義母だけはどうしても無理」

と。

「嫌い」で「どうしても無理」なことに、なぜ悩んでしまうのでしょうか。

ちなみに僕は「ヒージャー(山羊)汁」が「嫌い」で「どうしても無理」なのですが、それについて悩んだことはありません。

嫌いな義母のことで悩んでいるMさんと、嫌いなヒージャー汁のことを全く悩んでいない照喜名。

なにが違うでしょうか?

僕は、ヒージャー汁が嫌いな自分のことを、まったく責めていません。

だって、しょうがない。

生理的に受け付けない。

でもMさんは、義母が嫌いな自分のことを、責めてしまっている。

話を聴いていると、義母のことを受け容れようと、アタマでいろんな理由をひねりだして、なんとか変わろうと努力されている。

嫌いになったキッカケを聴くと、相当傷つくことを言われていました。

そりゃ嫌いになりますよね、というレベルの。

そのひどすぎる言葉を浴びせられたあとも、義母の言動にイラッとしてしまうことが多い。

義母、まぁとにかくデリカシーのない人なんですよね。

僕もかなり苦手なタイプだなぁと思いながら、話を聴いていました。

で、Mさん。

義母にもイラっとしていますが、それ以上に義母を受け容れることができない自分を責めてしまっている。

Mさんの話を聴きつつ、Mさんの身体の反応もチェックしていました。

その上で、僕からお伝えしたこと。

「義母は許さなくていいので、義母のことが嫌いな自分を許してあげましょう。」

デリカシーのない言葉で傷ついてしまった自分を癒してあげてほしい。

いまは傷ついたままになっているから、その後の義母の言動がその傷に滲みて追い打ちをかけてしまうような状態になっている。

Mさん以外にも、義理の親、そして実の親に対しても怒りや憎しみを抱えているという話を、ほかのお客さんからもたびたびお聴きします。

皆さん、

「そりゃ憎んで当然ですよね。」

ということを言われ、やられています。

でも「親を大切にしなさい・大切にするべき」というのが道徳的な常識のようになっています。

親を大切にするのは立派なこと。

むしろ親を大切にするのは当たり前のこと。

なのに親を大切にできない、それどころか親を嫌い憎んでいる自分はダメな人間だ。

・・・そうやって親への憎しみ以上に、自分自身を責めてしまっている。

それは苦しいですよ。

親を大切に⇒そうしたければ、すればいい。

でもそれができない自分を責める必要は、まったくありません。

親を嫌ってしまう・憎んでしまうにも、相応の理由があったはずです。

自分が自分の最大の味方でいてあげましょう。

親のことは嫌いなままでいいので、親が嫌いな自分のことは許してあげてください。