傷つけた相手のことを憎んだり恨んだりする、それはまだいい。
それよりも、その出来事をきっかけに自分自身のことを責め続けてしまったり、「わたしは大切にされない存在なんだ」と思い込んでしまい、自分でも自分を雑に扱うようになる。
それは、すごくかなしいこと。
あるいは、傷ついたことを認めず、なかったことにする。
心を守るために。
でも実際には、起こってしまった出来事は、なかったことにはならない。
傷ついた記憶は、こころとからだの奥底で疼き続けている。
癒されたいんです。
でも、癒すためには、その記憶と向き合わなきゃいけない。
向き合うためには、封印を解かなきゃ、パンドラの箱を開けなきゃいけない。
先日の「性のはなし@沖縄」に参加してくださったCさんからのDM↓

「男性が怖い」
ということに気がついてしまった。
「自分でも知らなかった」
と書かれていますが、「男性が怖い」という経験をした上で「なかったこと」にしたのだと思います。
心を守るために、そしてその方が表面上は楽だから、です。
でも、ほんとうは気づいて癒したかったんだと思います。
そのタイミングが、たまたま今だった、と。
来月、東京観光のついでに施術を受けにきてくれるそうです。
「男性が怖い」のに。
さらにCさんからのDM↓

講座を通して、父親からのトラウマにも気づけたんですね。
ちなみに講座内では、親に関する話はしていません。
でも「性」と「親」って、自分でも気づかないところで密接に関わっているんですよね。
だから「性」をきっかけに「親」との関係性も、気づく人は気づいてしまう。
気づけたのですから、ここからは癒す、ですね。
まずは来月の施術でお手伝いします。
そして、同じく「性のはなし@沖縄」に参加してくださった、IさんからのDM↓

さらに、同じく「性のはなし@沖縄」に参加してくださった、YさんからのDM↓

お2人とも、気づいてしまったんですね。
傷ついていたことに。
自分を犠牲にして、自分を責めて、そしてなかったことにした。
その時は、それでよかった。
そうすることで、自分を守っていた。
「そのままなかったことにしておけばいいじゃないか。」
と思われますか?
もちろん、その選択もアリです。
それで不都合がないのなら、それでいい。
でも。
不都合が生じてくることもあるのです。
「傷ついたわたし」が、「気づいてほしい・癒されたい」って、メッセージを送ってくる。
そのメッセージは、ほとんどの場合、こころとからだの不調として出てきます。
しかも慢性化する、あるいは繰り返される不調として。
そうじゃないと、なかなか気づこうと、向き合おうとしないですからね。
まず傷ついていたことに気づく。
それが第一歩。
そしてその傷ついていた自分を、ゆっくり癒していく。
それが次のステップです。
そして、先日の「性のはなし@東京」に参加してくださったあいりんさんのSNSへの投稿↓

女性性のバリアを解いていくようなワークをしているときに、息苦しさと涙が。
バリアが解けてくると、「パンドラの箱」の蓋も開いてくるんですね。
すると、箱の中にあった記憶が蘇ってくる。
しんどいんですよ。
ただ長い目でみると、そのしんどさを抱えながら生き続けることの方が、もっとしんどいかもしれません。
傷ついた記憶を抱え続けるのもしんどいし、その記憶に蓋をし続けるのもしんどい。
蓋をし続けるためには、蓋が開かないようにバリアを張り続けなきゃいけないんです。
で、バリアを張り続けるためには、こころとからだを緊張・警戒させ続けなきゃいけない。
「パンドラの箱」の中身と向き合うのがつらいから、その代わりに中身を抱え続け、蓋が開かないように心身をこわばらせ続ける。
勇気を出して中身と向き合い少しずつ癒していくのと。
「なかったこと」にして「パンドラの箱」の中に押し込めておくのと。
どっちがいいでしょうか?
どっちでもいいんです。
どっちにもメリットとデメリットがありますから。
閉じ込めたままで墓場まで持っていく方がいいような、向き合うにはあまりにも辛すぎる記憶もあると思いますし。
こういう書き方をすると「パンドラの箱」を開けるのはこわく感じる方もいるかもしれません。
実際につらい記憶が蘇ってきたりすることもあります。
が!
一方では「やっと気づいてくれた」って、もう1人の自分が安心して喜んでくれるような感覚も出てきます。
ずっと気づいてほしくて、癒されたくて、訴え続けていたもう1人の自分が。
「ずっと箱の中に閉じ込めておくのはかわいそうだな。」
「そろそろ出してあげてもいいかな。」
もしそう思えるタイミングがきたら、僕にもお手伝いできることがあるかもしれません。

